水道橋にあった労音会館ホールで初演して以来、来年で30年を迎える。
来年の10月末に東中野の梅若能楽学院で30周年記念公演として二日間の公演を予定。
このページは来年に向けて「幻の蝶」への想いを綴っていこうと思う。
これまでの公演の思い出や上演記録も交えながら、今思うことを少しずつ書きためていきますので、
時々覗いてみて下さい。昔の写真もいつか掲載します。
     

幻の蝶30周年

1979年1月26日初演〜2009年へ

◆初演時のこと                                     5/2

 マイムを始めて10年が過ぎた頃、小さなこども達を抱え生活もままならない状況のなか、
なおこの道で生きていくのか、それとも諦めて別の仕事に就くか迷いの日々を送っていた。
自分に才能があるかどうかなんて当然判らない。ただパントマイムにだけは不思議に素直に
のめり込めた。パントマイムを失ったら自分には何が残るだろう、そう考えたとき改めて、パントマイム
こそが自分にとって生涯追い続ける対象なんだとハッキリとしたものになった。
 ならば、今ある全てをぶつけて舞台を作ろう、そう決心して作った作品がこの「幻の蝶」でした。
それまでに作った作品の中から自分が好きな10本を選び出し、その中の一つ「幻の蝶」をタイトルにして
この舞台が生まれたのです。(ちなみに現在は8本で構成しています。)

 それまではマルセル・マルソーは別として、我々日本のパントマイムは小さな空間で演じるられるのが
常だった。 勿論私も100人が大きい方という、殆どは数十人の小空間で演じてきていたのだが、
この「幻の蝶」はどうしても大きい空間で、照明も、音楽も衣装も全てきっちりから作り上げた舞台にしたい
という想いがあった。 当然今までとは桁違いの制作費がかかる。 しかも何百人ものお客様を呼べる自信
もない。でも、ここは一か八か、賭けるしかないと思い公演に踏み切ることになった。

 音楽は高校時代の友人で、既にプロとして活動していた作曲家・はらまさみ君
に依頼、プロの音楽家を頼みスタジオで録音することになる。
衣装は当時住んでいた福生の家の隣に、たまたま衣装をやっている女性
(近藤順子さん)がいて引き受けてくれた。照明はマイムを始めた当初からの
友人・三浦安雄さん、音響は安良岡 守さん、舞台監督が大門弘児氏という
スタッフ。タイトルは大田 門さん。
そして何と、ポスターやチラシ、チケット、パンフレットのデザイン一切は、
今や絵本の世界では知る人ぞ知る鈴木康司さんであった。
(左が鈴木康司さんの手による初演時のチラシ、私の宝物です。)
私としては大袈裟でも何でもなく、この舞台が自分のマイム生活のスタート
だったと思っています。

当時のパンフレットに書いた言葉です。
「いつも『語りかける』という気持を大事にして、見て下さった貴方が、
いつかまたあの作品を見てみたい、と思っていただける
舞台を作ること、これが私の心することです。
そしてこの公演は、まさに長い〈まいむろーど〉
への旅立ちなのです」

30年が過ぎた今もこの想いは少しも変わらないばかりか、
なお一層強くなっていることに小さな喜びを感じます。


  

左の詩は 当時良く一緒に仕事をさせていただいた
須永博士さんがパンフレットに寄せて下さったもの。




◆「マロード」         
5/11

 「幻の蝶」を初演する前の数年、原宿に「まろーど」という小さなライブの出来る店があり、
ここで毎月仲間数人と「マイムロード」という小公演を続けていた。二月に一度新作を発表し、
間の月は同じ作品を演じるという物だった。二ヶ月ごとの新作作りはなかなかに辛い仕事だったが、
とにかく日も決まっていて逃げられない。
 でもこの「マイムロード」があったからこそ「幻の蝶」の諸作品が生まれたのだ。
苦し紛れでも作品をひねり出す、若いときも今も舞台を続けていくうえで大切なことだ。
時間や精神的に余裕が無いから作品が出来ない、というのは逃げ口上。
私はむしろ時間や経済的、或いは精神的に余裕のない時の方が作品が生まれる。
他人に「アーティストはハングリーじゃないと行けない」なんて言われるのは御免だが、
矢張りそういう部分はあるようだ。

 さて、この「マロード」のご主人は目が不自由な人だった。全盲で歌が上手くて自分で作曲した曲を
「ギター」で弾き語りをしていた。私たちがマイムをするときに音響室が舞台の裏にあって、舞台上の
動きを見ることが出来ず、どうしようかと言っていた時になんとこのマスター・樋口さんが音響をやるよ、
というではないか。 「だって目が見えないのにどうして」と半信半疑でいた私たちがビックリしたのは
その樋口さんの音を入れるタイミングがぴたっとはまること。
「何で?」という我々に彼はこともなげに「判るんだよ、見えなくたって」と。
呼吸のようなものを感じるんだと言っていたけれど、今思い出してもすごかったなあ。

さてその彼は暫くして原宿の店を閉め、故郷の札幌に帰って矢張り「マロ−ド」というお店をやっている、
と聞いたけれど私は行く機会がないままである。今もお元気かなあ。

 この時に創った私の作品で特に思い出に残っているのが「いのち」だ。ちょうどこの「マイムロード」の
新作を創らなければならないときに、私を特に可愛がってくれた祖父が亡くなり、その前後数週間は何も
手に着かず、勿論新作なんて出来ないままに時間が過ぎ公演の日が迫った。 
でもやらなくてはならない。この時初めて、誰にも判って貰えなくても良い祖父の鎮魂の作品を、
と思って創ったのが「いのち」なのです。生前の祖父の仕草、祖父と夏に遊んだ花火、とても穏やかに
息を引き取った最後の顔、そんなことをそのまま作品にしたのです。
でも不思議なもので誰にも判って貰えなくてもと思って創った作品を、後にドイツのケルンで初めて
海外公演をしたときに見てくれた人が、「『いのち』が一番心に響いた」と言ってくれたのです。

私のマイムに対する姿勢がハッキリしたのはこの時のこの言葉だったかも知れません。
「何よりも自分の想いを大切にして創る」ということを。

 そう、この「マロード」では今井保行さんという詩人、童話作家との出逢いがあったのも大きな出来事
でした。 後年、大好きな今井さんの作品『雪まろげ』をマイムにさせていただきました。
「まいむ民話」の中の作品です。そういえば今井さんも北海道・札幌に近い江別にお住まいです。



◆初演時のこと sono2
                5/25
 
 初めての大舞台、と言っても400人でしたが、それまで殆どの舞台が4〜50人の小さな空間。
たまに大きな舞台に立つことはあってもこの時の「幻の蝶」は思い入れが違う。
準備の段階から次第に公演が近づくに連れてプレッシャーが増してくる。
 お客様は来てくれるだろうか? 作品が仕上がるだろうか? 見てくれた評価はどうだろう?
数週間前から胃がキリキリと痛み出し、我慢できなくなって医者に診て貰うと十二指腸潰瘍
だという診断。まさに精神的な重圧から十二指腸に傷が出来てしまったのだ。

 さて、そんな状態になっても否応なく公演日が来てしまい幕が開く。客席にはかなりのお客さんが。
とにかく気合いが入っていたので一気に一部が終わる。初演時は今より作品の数が2本多くて一部、
二部とも5作品ずつの構成で、一部の終了時で既に一時間ちょっとが過ぎていた。 
休憩に出てきたお客さんから「まだ半分なのか」という声があったと聞く。
今にして思えば、初めてパントマイムを見るお客さんが殆どで、無言で繰り広げられる一時間強の
舞台はさぞ疲れたことだろう。 しかも初心者で拙い演技の上にやたら気合いが入っているのでは
お客様にはたまったものではなかったと思う。

 でも演じる私は知ったことではない。後半もじっくりたっぷり演じてまさに自己満足に浸った初公演
となった。客席には三木のり平さん、村松英子さん、財津一郎さんなどが来ておられたと聞いたように
記憶しているが、果たして本当だったのだろうか。
公演があることは新聞でも大きく取り上げて紹介されて、自分の予想を遙かに超えるお客様が来て
下さったのだ。
 その中にMumbo Jumboに書いた横手の和賀敏雄君もいたのである。打ち上げの様子は今でも
鮮明に残っている。
終わってしまえばお客様の評価などもうどうでも良くなり、打ち上げの時には「この作品はライフワーク
としてずーっと続けていきたい」と大見得を切っていた。まさかそれから30年、本当に続けているとは
勿論思いも寄らないことだったが。

 公演が終わったあとは残務整理も大変だったが、とにかく全力の舞台だったのと、胃に穴が空く程の
精神的な疲労とで一週間の間何も出来ず、死んだように倒れていたのだった。
 今の方が格段に体力が衰えているはずなのに、公演の翌日も平気で教えに行ったり、舞台に立ったり
しているのだから、精神的に余程図太くなっているのだろうか。
いや、それもあろうが漸く余計な力を入れずに舞台に立てるようになったのだと思う。
10年ほど前に、照明をして下さっていた辻本晴彦さんが、「清水さん、力が抜けて楽に見ることが出来る
ようになったよ」と言って下さったのが何より嬉しかったことを覚えている。

 私に力が入っているとお客様も力が入ってしまう。力を抜んだと判っていても難しい。
漸くこの歳になって力を抜いてフワッと舞台に立つ感じが判るようになった。
これからますます舞台を楽しめそうな気がする。
                                        Mumbo Jumbo


◆福岡・盛岡へ               6/21
 
 東京公演を終えて心身ともに虚脱状態に陥ったが、3月には福岡、4月には盛岡での公演が控えていた。
今にして思えば何と無謀な計画を立てたことだろうと呆れるばかりだが、何も判らないというのは恐ろしい。
どう準備して、どうお客様を集めたのか、記憶はもう遠く定かではないのだが、とにかく友人、知人、
そのまた友人と、がむしゃらに人の伝手を頼って公演に漕ぎ着けたことは確かだ。

 私がマイムを始めた頃はまだパントマイム自体が今のように知られていなくて、そのことでの苦労も
あったが、珍しさから特をしたことの方が多かったと思う。
 マイムを始めて10年が過ぎていたこの頃は、景気も上昇期でイベントの仕事も多く、街角で人形振り
(白塗りのピエロのメイクでマネキンのようにじっと立っているあれです)やら、街頭パフォーマンスやらで
結構仕事があり、何とかマイム一本で生活が成り立つ状況だった。
今のように優秀な同業者が沢山いては私などとても駄目だっただろうが、その当時は東京のみならず
各地から声を掛けていただき、西へ東へと結構忙しかった。
その中でいろいろな所に知り合いが出来、その人達が後に各地で公演をする際に大きな力を貸して
くれることになった。
 
 福岡・博多は天神地下街という日本の数ある地下街でも独特の雰囲気を持つ地下街で、
ヨーロッパ調の街路が外国の町並みを思わせ、その街路にあったイベントをと言うことから、私は
オープン以来30年、実はつい3年ほど前まで毎年暮れになると天神の街角にピエロで立っていたのです。
私がここ十年以上の間でピエロをやっったのはここだけ、密かな私の楽しみでした。
これを知っていたのは博多の人達だけという訳です。

さて、私にはちょうど自分のマイム生活と平行してこの地下街の仕事があり、他の仕事とは違う愛着が
ありました。そしてこの地下街では本当に沢山の素晴らしい人達と出会いました。
そこで出会った方々が私の初めての地方での公演を支えてくれた訳です。
大博多ホールという400人くらいの規模だったでしょうか、あのときは何人くらいの方が見に来て下さった
のかもう覚えていませんが、出来上がったチラシやポスターを詰め込んだ重い鞄を引きずるようにして、
吹雪が舞う博多駅のプラットホームに降り立った時のことは今も鮮明に覚えています。
博多ではこの公演のあとも様々な舞台や仕事があり、田舎のない私にはふるさとのような懐かしさを
覚える街になりました。

そして盛岡。もう博多の舞台の一ヶ月後ですから本当にどうやって準備をしたのでしょうか。
これもその数年前、東京の知人の伝手を頼りに初対面の方の家を訪ね、そのまま一月近く三食付きで
しかも、と言うか勿論というかただで泊めて貰いながら、盛岡や遠野、秋田などで公演をしたのです。
盛岡の公演もその時に助けてくれた人達が中心になって手伝ってくれて実現したものです。
いやはや若気の至りです。思い出すとその図々しさに赤面の思いです。
そして盛岡も博多と同じく私には特別の思いがある地になりました。
 
 その時に留めて下さったお母さんは、お元気であれば90才くらいになられるでしょうか。
後年、その地を尋ねたときには家が区画整理で無くなっていて、お目に掛かれないまま今になって
しまいました。「人間食べ過ぎて死ぬことはないよ」と言って次から次にご飯をよそって頂いたのが懐かしい。
照明を担当してくれた人達には、金もなく、お客様も思うように集められなかった私たちを見かねて、
公演当日の劇場の裏で「イモの子汁」を作って食べさせて頂いたのでした。
これには今も思い出す度に涙が滲んできます。
そんな人々の暖かさが、私がマイムを続けていく上でどれほど大きな励ましになったことか。

 私の「幻の蝶」の歴史は今更ではありますけれど、人との出会いの歴史であったといえるでしょう。
力を貸して下さった多くの方々へ何も恩返しが出来ないままに今日になっています。
何年もご無沙汰したままになっている人も数知れません。
元気に舞台に立てる限りは精一杯心を込めて演じること、そして出来るだけ長く演じ続けることが
みなさんへの恩返しだと思っています。 
公演記録

 (下に行くにつれて新しくなります。)